千葉キャンパス ブログ

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  1. 「その時歴史は動いたのかも…五大力船と房総横断(中編)」

    通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパスの宮本です。

    私も、故郷近くにある東金城についてあれこれ調べてみたり、ダイエットを兼ねて実踏調査に通ったりしましたが、一つ非常に知りたいことがあります。

    それは、前出の酒井氏が後北条氏、両(扇ケ谷、山内)上杉氏、小弓公方、千葉氏とその諸族や周辺諸勢力等々がしのぎを削る下総と上総の境界線で、東西に勢力を伸ばしていけたのは、なぜかというところです。

    で、大したことではないのですが、私がとっても引っ掛かっている事があります。

    それは、(初期)中野城の位置です。現在、千葉県の中野城といえば千葉市の中野城が認識されていますが、遠山先生等の調査にもあるように市原市中野にある光徳寺やその周辺が「なかんじょう」「なかのじょう」と呼ばれています。ここには「市東城」があり、寺域周辺には土塁や空堀の跡のようなものも散見できます。

    このいわゆる「市東城」が「(初期)中野城」だったのではないかと思えてならないのです。

    浜野から、土気・東金への足掛かりとした(初期)中野城ではなかとうかと・・・

    そして、そこは酒井氏が享徳の乱の鎮撫のため美濃から派遣され(諸説あり)、房総進出の足掛かりとした浜野から酒井氏隆盛の基となった土気城を、村田川によって結ぶ、その中間地点にあります。

    さらに、光徳寺とその周辺は舌状(舌のような)台地になっており、村田川を上流から下流まで見渡せ、おまけに流路は直下で屈曲しているため、舟運の管理や防御にも適しているようにも見えます。

    また市原市では、江戸時代頃~昭和初期まで大活躍した「五大力船」という海川両用船が有名なのですが、ここに何か面白いカギが隠されているような気がしてなりません。

    室町~戦国期には舟運が大きく発達したことにともない、水軍城ともいうべき軍港と要塞の機能を併せ持つ城も多く築かれました。

    千葉県でも酒々井町の本佐倉城などは後北条氏側(後千葉氏)の一大内(河川湖沼用の)水軍拠点(大小300程度の軍船が所属していたとも)として機能し、また富津市の造海(百首)城は江戸湾を抑える要衝として後北条氏と里見氏による争奪の的となったほどです。

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    通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパス 宮本

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