千葉キャンパス ブログ

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  1. 「その時歴史は動いたのかも…五大力船と房総横断(後篇)」

    通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパスの宮本です。

    さらに、市原市の国分寺台には奈良時代から上総國の国衙が置かれており、古代から人や物資の集積地として舟運も活用されているなど、この地域には古くから「フネ」を活用する土壌がありました。

    五大力船」には大きさが9~19メートルほどと多様なサイズがあり、運用される河川の規模や目的等に合わせて、様々に使い分けられてきました。

    論拠ではありませんが、楠正成が河内地方の流通業で経済的基盤を得ていたり、あるいは織田氏や六角氏等が楽市楽座で城下町を発展させたり、各勢力がそれを維持するためには経済的な強みがあるに越したことはありません。

    舟運を支配するということは、(ごく小さな地域ですが)地域経済を支配するということにもつながります。

    そういう経済的視点から見ても、交通の要衝を抑えるという軍事的視点から見ても、舟運が古くから発達していた市原市、そして江戸湾の泊のひとつであった浜野とそこに河口を形成する村田川を酒井氏が見過ごしたとは考えられないのです。

    この光徳寺と五大力船のそれぞれの謎と、その繋がりが証明できれば、中野城~土気城~東金城~田間城を中心として栄えた酒井氏が房総横断を果たし、なおかつ激動の時代の中で生き抜けてきた謎の一つが分かる様な気がしてなりません。

    もちろん、ごく短時間に後北条側やら里見側への去就を猫の目のよう変えてみたり、時には土気城と東金城の両酒井氏で盟主を変えてみたりと、非常に忙しい外交によって生き延びてきたことに違いはありません。

    ただ、千葉氏宗家もその内乱によって千葉(猪鼻)城を離れ、多古町に拠点を移し、さらにそこで宗家滅亡を迎え、やがて本佐倉城に後千葉氏ともいうべき新しい千葉家が拠点を移し・・・と、千葉を代表すす名家であっても安寧では一られなかった時代に、酒井氏はどうやって生き延びる事が出来たのか、謎は尽きません。

    まだまだ千葉県を極めていきたいと考えている、今日この頃です。五大力船やなかんじょうについてご存知の方、ぜひぜひ宮本おじさんにご教示ください。

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