「泥中の蓮」
通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパスの宮本です。
今日は、趣を変えてちょっと高尚なところからネタを持ってきます。
非常に古い経典の一つ「維摩経(ゆいまきょう)」というものがあります。
この経典の一節に、この「泥中の蓮」が出てきます。どのような状況におかれても、清く正しく生きる様。あるいは、どのような状況におかれても、己の志を捨てずにまっすぐに生きる様を意味する
言葉として知られています。
さて、人間はとかく「責任」を「転嫁」しがちです。私なぞは、その最たるものです。
何かがうまくいかなかったりすると、すぐイラッと来てしまいます。でもね、何を言おうが何をしようが、全ては自分が源泉であり、全て自分に還ってくるんですね。
仮に誰かを「イヤな奴」と思っても、その人が四六時中イヤな奴でいる方こそ至難の業です。
おそらく、十中八九、自分の知らないところではとってもイイ奴なんでしょう。つまり、本当はイイ奴のイヤな面を自分に向かって引き出させているのは、誰あろう自分自身なのですね。
「泥中の蓮」、本当に周りは臭くて汚い「泥」なんでしょうか?
そもそも、その「泥」の中に含まれる多様な栄養分がなければ「蓮」は育つことができないわけです。「泥」に囲まれているからこそ「蓮」は成長できる訳で…。自分一人が頑張っていると勘違いしてしまっている時、周囲に不満を持っている時、そういう時に限って己の眼が曇っていることに気づかないような気がします。毎日反省しきりです。
「自」も「他」も、「加」も「被」も視点一つで大きく変わります。泥中に気高く咲く「蓮」になりつつ、
たくさんの蓮を育てる「泥」にもなりたいと考える今日この頃。
新年度も一ツ葉高校の皆さんと共に「泥」の素晴らしさを実感できる人間になりたいと思います。
通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパス 宮本